伊藤塾講師太田卓哉氏のBlogより

主題は私の嫌いな漫画

ちょっと昔の記事ですが、たまたま検索して出てきたので、ここで取り上げてみたいと思います。
筆者は伊藤塾講師らしく、暴力反対的な主義主張を持っている人です*1
ただ、「(暴力や犯罪や侵略戦争の)行為者にも良いところがあるんだとアピールしているもの」を否定していながら、「犯罪者に一生犯罪者の烙印を押すべきだといっているのではありません」としている所が非常に引っ掛かるのですが*2、全般的に言いたいことはある程度納得がいきます。

過去を忘れることが果たして良いことなのか?

特に、

若い頃にやんちゃだった。昔、人に言えないことをした。
でも、今は違うから、懐かしいなとか、もうどうでもよいではいけないと思います。
自分が犯した行為は一生自分の中で償おうとしていることで、
恥じることの無い一生が送れるのではないかと思います。

私自身も人に迷惑をかけてしまったことについては、
今もずっと心の中にあり、
それを自覚した上で、その反省に対立しないように行動しようとしています。
(なかなか、聖人君子のようにはいきませんが。)

ここは同感です。
私はよく過去に囚われているとか、後ろ向きで悲観的とか言われることがありますが、自分自身、どちらかと言えば楽天家であり、過去に囚われたように見えるのも、自分自身の過去において、やってきたことを忘れまいという気持ちあってこそであり、決して後ろ向きだということではないということです。
ただ、多くの日本人はこういう態度を否定する考えがあるようです。
なので、私も過去に囚われるなというようなことを一杯言われ、そして、それに対して何とか反駁してやりたい気持ちがありました*3
上記引用は、私がそうした「現在志向」の連中に向けて反駁したいことの内容そのものです。

いじめられた恨みは一生忘れないが、いじめた側も実は苦しんでいる

私は昔から、いじめられてきたので*4、いじめられた側の持ついじめた側への感情というのはよく分かります。
しかし、いじめた側はそれこそ「今は違うから、懐かしいなとか、もうどうでもよい」という気持ちを持っている現実もあることもよく分かっています。
一般に、いじめとかは大体、された側がよく覚えているのに対し、した側が忘れているといいますが、そういう過去で一番苦しんでいるのは、された側ではなく、した側だとさえ思うときがあります。
つまり、いじめっ子も実は、そうした過去を全く忘れたり否定したりしたいのではなく、寧ろ逆に人を虐めた苦しみに苛まれているのかもしれません。
だからこそ、「今は違うから、懐かしいなとか、もうどうでもよい」と言って逃げたくなるのかもしれません。
尤も、加害者が過去の加害した件で苦しむのはある種自業自得ですが、加害の正当化の背景にはこのような心理状態があることは知っておいた方が良いでしょう。

主観の押し付けこそいじめの濫觴である

最初の段落で触れた「(暴力や犯罪や侵略戦争の)行為者にも良いところがあるんだとアピールしているもの」を否定していながら、「犯罪者に一生犯罪者の烙印を押すべきだといっているのではありません」とするギャップについて触れておきます。
例えば、いじめが起きた場合、いじめた側ばかりを責めるような論調が屡々見受けられます*5
そういう気持ちは分からなくもないですが、虐めた側ばかり責めるのは対処療法にしかならないばかりか、今度は今まで虐めた側が虐められる側に回るような現象が発生しかねません。
私は、酷いいじめを受けた高校の頃、母親に色々窘められ、当時は自分に同情しない親を怨んでいましたが、要は、虐める側だけでなく、虐められる側にも問題点があるということの指摘を受けました。
そういう意味において、「(暴力や犯罪や侵略戦争の)行為者にも良いところがあるんだとアピールしているもの」に対する否定は極めて一方的で、物事の多面性を否定した見方であると思えますし、それが「犯罪者に一生犯罪者の烙印を押すべき」という思想に繋がるのは火を見るより明らかです。
筆者が「(暴力や犯罪や侵略戦争の)行為者にも良いところがあるんだとアピールしているもの」を否定するのは恐らく、考えの背景に先の戦争の件があるのですが、これも片方の当事者から見れば相手が悪いという見方が導き出されるのは当然のことです*6

憎むべき高校時代とて、悪い思い出ばかりではない

私は、高校の頃の同級生を全員とまでいかなくとも、今でも憎み、怨んでいます。
例えば、私に「親しみを込めて」いるなどという詭弁で変な渾名を付けようとしたりする行為をした者とか、好きな女の子は誰とまるで写真週刊誌の取材のような詮索を試みた者とかを憎んでいます*7
そして、それに対して、適切なフォローをしなかった自分の親を含む周りの大人たちも今でも憎んでいます*8
しかし、いじめ抜かれた高校時代とて、嫌な思い出ばかりではないことも事実です*9
そういうことを考えると、「(暴力や犯罪や侵略戦争の)行為者にも良いところがあるんだとアピールしている」というのは加害者に対して、物の見方の多面性を斟酌する機会を与えられているというように解すべきであって、これを踏まえなければ「犯罪者に一生犯罪者の烙印を押すべき」ではないという考えには至りません。

多面的なものの見方を学ぶことが人権擁護に繋がる

私は伊藤塾で法律の勉強をしていますが、伊藤塾長は講義の仲で時折、多面的なものの見方を心がけるような旨のことを言うことがあります。
相手を一方的に否定するような態度では人権は守れません*10
つまり、相手が一方的に悪くても、それを全否定するような言いようでは実質、その相手の人権を蹂躙していることに他なりません。

*1:余談ですが、私のいた高校でも暴力反対という主義主張がありました。
私がそんな高校でいじめを受けていたのは何かの皮肉でしょうか?

*2:相手を一方的に否定することこそが、「犯罪者に一生犯罪者の烙印を押す」ことに繋がると思う

*3:内容的にはズレがあるが、仁香にすら言われたことがある

*4:尤も、中学以前は積極的に反攻したので大事に至らなかったが

*5:いじめられっ子が自殺したら尚更である

*6:「進出」か「侵略」かは一方の当事者の主観に過ぎない

*7:これらの行為は、前者は名誉権の侵害、後者はプライバシー権の侵害という人権蹂躙以外の何者でもない

*8:高校の頃の教師は比較的左巻きな「人権派」が多かった印象があったのだが

*9:尤も、高校の同級生達に対して、自分の辛い状況を語るときはそうした良い思い出を全て否定しないと論旨が破綻してしまいますが

*10:いじめなど人権蹂躙の原因の本質は相手に対する一方的な否定にある