いじめる側の心理

こちらのBlogにて、虐める側の心理が紹介されている

このBlogの筆者は裕福な家庭に育っており、当時は「女中」が家で働いていたというのですが、筆者の姉がその「女中」の1人を虐めたら、筆者がそれに加わったということに対する懺悔の意味を込めて書いたものと思われます。
いじめる側に回るにしても、筆者の姉のように積極的に攻撃する場合と、筆者のように半ば無自覚で、いじめる側に加わるケースとがあります。
当時の筆者及びその姉は未だ子供だったので、結局、体力のある「女中」に打ち負かされてしまうのですが、「女中」も立場柄、主人の家の子供の悪戯を言う訳にはいかなかったのでしょう。
それ故、筆者たちは怒られずに済んだのですが、若気の至りとはいえ、筆者はそのことを今でもよく覚えており、また、この経験から、いじめを憎む心を身につけたようです。
筆者の場合は、いじめた相手が立場的には下でも体力的には上だったから、エスカレートせずに自省ができたのかもしれません。
学校とかでのいじめの場合、立場的には取り敢えず対等で体力的には下という相手をいじめるのですから、殆ど無抵抗な相手ではいじめはエスカレートする一方です。

揶揄はいじめの濫觴

私は、ちょっとからかわれた程度で怒り心頭に発し、相手に掴みかかるとかするような人間なのですが、これは偏にプライドが高くて生真面目だからという訳ではないと認識しています。
殆どのいじめの場合、最初はちょっとした揶揄程度に過ぎない訳ですが、お笑い芸人のように面白おかしく反応し受け流せる人間はまず、「いじめ」になることはないでしょう。
ただ、例えそのように見えても、からかわれる立場の人間が実は心の中でからかった相手を憎んでいる可能性は否めません。
私だったら、例え直接的に怒りを露にしなくても、少なくとも心の中ではからかった相手を憎みます。
からかう側はほんの軽い気持ちでしょうが、からかわれる側は受け流しているように見えても、実はからかった相手を強く憎んでいるというケースは少なくありません。
しかし、からかう側がそれに気がづかずに、揶揄をエスカレートしてしまえば、やがていじめに発展してしまいます。
私の格言に、「揶揄はいじめの濫觴」というのがあるのですが、これこそ将に、最初から買っていた程度のことがエスカレートしていじめに発展するということの正鵠であると考えています。
岐阜県瑞浪市の中学で、女子中学生が自殺したという事件がありましたが、これも揶揄なのかいじめなのかの境界点の辺りで起こったものだと考えています。
自殺した女子中学生はかなり真面目な性格だったことを考えると、私と似たようなものだったのかもしれません*1
この辺は、学校教員の高い人権意識がないとかなり発見が難しいかと思われます。
そういえば、伊藤塾で法律の勉強をしている合間に、伊藤塾長が法曹には高い人権意識が必要という旨のことをいうことを屡々言っていますが、法曹だけでなく、学校の教職員も高い人権意識が必要だと思われます。

*1:因みに、私の場合、かなり直接的に怒りを露にすることが多かったので、学校教員がそれを見つけるのに手間がなかったので、このような事態にまで発展しなかったのだろう