禁じ手を打ってきた「幸福の科学」
1.始めに
以前から言っているのだが、私は「幸福の科学」に対して否定的なスタンスではない。
しかし、過去の記事を見れば分かる通りだが、幸福実現党には否定的なスタンスである。
今回の話は若干古い話題だが、書くべき時機を逸してしまったので、今日取り上げることにする。
2.宗教的カリスマは無闇矢鱈と表に出るべきではない
(1)大川氏の「前世」のなせる業か?
「幸福の科学」の大川隆法総裁は7月22日の西東京特別講演会において、「私自身が政党の中心になることによって、政権担当能力を急速に高めていく」と称して、選挙に出馬する動きを見せた。
正直、大川氏の「前世」が「ヘルメス」など政治家と宗教家を併せ持ったような人とのことだが、ここまで出しゃばりな宗教家それも教祖とは近代立憲主義社会においては前例がない。
中堅の宗教家はともかく、教祖自身が政治という俗世間の表舞台に立つことには違和感がある。
この問題は、政教分離とかそういう類の問題ではなく、信仰対象たる教祖のあるべき姿の問題である。
(2)信仰対象は表に出すぎると有り難みを失う
「有り難い」という言葉がある。
「有り難い」とは「有る」ことが「難しい」、即ち、「ありそうにない。ほとんど例がない。めったにない。珍しい。」ということである。
宗教における教祖というのはそうした「有り難い」存在でなくてはならない。
何故なら、教祖が誰でも取って代わることが出来るようなものなら、教祖のカリスマ性の根源が無くなるからである。
また、仏教で言う三宝(仏・法・僧)とは、教祖自身(仏)・教祖の思想(法)・教祖を奉る信徒(僧)であり、これも教祖のカリスマ性あってこそのものである。
つまり、教祖とは唯一無二の存在として大切に扱わなくてはいけないものである。
俗世間で無闇矢鱈と晒し者にするような行為はその教祖を信仰する者としては厳に慎まなくてはいけないことである。
(3)宗教政党自体はありだが
よくカルト宗教が政治に関わるのは嫌だという意見を耳にするが、私としては、世間にある多種多様な意見を政治に反映させることが民主主義のあるべき姿だと考えているので、宗教政党自体はありだと考えている。
だから、公明党や幸福実現党のような宗教由来の政党自体を否定する考えには到底賛同できない*1。
しかし、こうした政党には俗世間と非世俗の橋渡しとなるような中堅の宗教家或いは既存の政治家でその宗教に帰依したような者のみで構成するべきであり、間違っても、教祖や高位の僧侶が加わるべきではない。
昔なら、それこそ「ヘルメス」などの時代なら、王家の血筋とかそういうものでカリスマ性が保証されていたから、宗教家と政治家を兼ね備えたような統治者がいてもおかしくないが、今の立憲民主主義の世の中においてはそうはいかないものである。
何故なら、選挙によって選ばれるためには時により、辱めを受けなくてはいけない状況もあるからである。